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世界の旅
トルコの旅    イスタンブール
     Istanbul
 イスタンブールは、ヨーロッパとアジアの2つの大陸にまたがる唯一の街で人口1,003万人(2000年)の大都市です。ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン帝国という3代続いた大帝国の首都で遺産も多く残っています。シルクロードでは、東西文明の十字路として発展しました。

 現在「旧市街」と呼ばれる古代ギリシャの植民都市ビュザンティオンが、イスタンブールの起源だといわれています。アテネとスパルタが戦った紀元前5世紀末のペロポネソス戦争の時、ビュザンティオンはアテネへの食料供給にとって特に大きな意味を持っていました。ヘレニズム時代以降も繁栄を続けたビュザンティオンですが、紀元後3世紀には時のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスによって破壊されています。
 

330年にコンスタンティヌス1世がここに遷都し、この町を大拡張し、自らの名前にちなんでコンスタンティノポリスと改名しました。そして古くからの多神教を捨てて、それまで迫害を加えてきたキリスト教を古代ローマの国教として定めたのです 

 395年にはローマは東西に分裂、アナトリア地方は東ローマ帝国になりますます発展しました。8世紀頃になるとイスラムの侵攻を受けるようになり次第に衰退していきました。1071年マラズギルトの闘いでセルジューク(イスラム・スンニ派トルコ王朝)に破れました。
 1453年オスマン帝国のメフメト2世はここを征服しました。そしてエディルネから首都をここに移しました。ムスリム(イスラム教徒)のトルコ人だけではなく、正教徒のギリシャ人、アルメニア正教会派キリスト教徒のアルメニア人、ユダヤ教徒のユダヤ人や西ヨーロッパ諸国の商人・使節などさまざまな人々が住む、東西交易の中心都市になりました。

 1923年、前年にスルタンを廃止してオスマン帝国を消滅させ、首都機能をアンカラに移したアンカラのトルコ大国民議会は、トルコ共和国の建国を宣言しました。これにより、イスタンブールはコンスタンティヌス以来1000年以上続いた大帝国の首都としての役割を終えました。



ヒポドローム
Hippodrom
(古代競馬場)
 スルタンアフメット広場の西にあるローマの大競技場跡です。かつては市民に熱狂的な人気があった戦車競技が行われていたそうです。
 現在は広場になっており、3本のオベリスクが建っています。テシオドスのオベリスクはエジプトのカルナック神殿から運んできたもので高さ25メートルでトトメス3世の浮き彫りがあります。390年にここに建てられたそうです。



ブルー・モスク
スルタンアフメット ジャミィ
Sultannhmet Camii
 正式名称は、スルタン・アフメット・ジャミィです。1616年にスルタンアフメット1世の命によってメフメット・アーの設計で建造されたイスラム教寺院です。
 6本のミナーレと高さ43m、直径27.5mの大ドーム、4つの副ドーム、30の小ドームを持っています。特に6本のミナーレを持つイスラム寺院は世界でも珍しいようです。 
 このジャミィは言い伝えによると、6本のミナーレはスルタンから「黄金(=アルトゥンAltun)」と望んだメフメット・アーが「6(アルトゥAlti)」と勘違いしたためできあがったといわれています。
 ドームには260にものぼる小窓があり、ステンドグラスに差し込む光がきれいに輝いています。また内壁を飾る2万枚以上のイズニック・タイルは青を主体とし、さまざまな文様を組み合わせています。このタイルの色からブルーモスクの愛称が付けられました。現地の人には通じないようですが。
 タイルは偶像崇拝を認めていないことから神を表わす図柄は一切ありません。ユリやチューリップなどの草木模様かモザイクでできていて連続した美しさがあります。さまざまな文様を組み合わせているのですが建物全体としては落ち着いた青い色調に包まれています。
 15世紀にモスクの建設ラッシュがあり各地にタイル工場がたくさんできたそうです。16世紀にイズニックでいままでなかったトマト赤の色を出せるようになり一大産地になったようです。
 イスタンブールからバスで4時間ぐらいのところにあるイズニックにはこのイズニック・タイルの博物館があるそうです。釜跡などもあるそうですが17世紀にはタイルの需要が無くなりその製法を伝えるものもなくなりタイル職人は苦労しているということです。
 また、ジャミィ内にはエチオペアから送られた絨毯が敷き詰められています。絨毯は緑を主体とし、イスラムでは緑は聖なる色とされています。



アヤ・ソフィア聖堂
ハギア・ソフィア
Ayasofya
 ビザンチン建築の最高傑作とも称され、巨大なドームは地上55m、直径は33mもあります。東ローマ帝国時代にコンスタンチヌス2世によってギリシャ正教の総本山として建てられました。
 アヤソフィアの内部には、イスラム教の唯一神アラーや、預言者ムハマッド、後継カリフたちの名が大きく円盤に描かれ、上部の半ドームには、キリスト教の聖マリアや天使たちの姿が見られる。
 アヤソフィアは4世紀にローマ帝国コンスタンティヌス2世により、ギリシャ正教の総本山として建設されました。その後焼失し、537年東ローマ帝国のユスティニアヌス帝によって再建されました。
 アヤ・ソフィアの巨大ドームが完成したとき、その床の上にひれ伏し、ユスティニアヌス帝はエルサレムのソロモンの神殿に勝ったと絶叫したといわれています。旧約聖書に描かれた幻の神殿を再建することが、ビザンチンの皇帝にとって最上の喜びであったのでしょう。
1453年、オスマントルコ帝国のスルタン、メフメット2世は、ビザンチンの聖地、アヤソソフィア聖堂に入場しました。その後、聖堂の四方に4本のミナレットを付設し、正教の聖堂を、イスラムのモスクとして改造してしまったのです。
 ドームの十字架は三日月にかわり、玉座と祭壇とイコンは取り払われ、床に絨毯が敷かれ、メッカの方向に祭壇の向きが変えられ、モザイクやフレスコ画は漆喰で塗り固められてしまいました。
 1931年、アメリカの調査隊により壁の漆喰の下のモザイク画が発見され、アタティルク大統領がビザンチン文化の華ともいえる美しいモザイク画を見学できるように博物館として一般公開できるようにしたのでした。キリストを抱いたマリア像、キリスト座像、2階のギャラリーにあるキリストとマリアとヨハネが並ぶモザイク画が特に有名です。



トプカプ宮殿
Topkapt Sarayi
 イスタンブール旧市街のある半島の先端部分、三方をボスポラス海峡とマルマラ海、金角湾に囲まれた丘にトプカプ宮殿があります。メフメト2世が、1560年代頃造営を開始し、1578年頃までに完成したといわれています。
 トプカプ宮殿の名は、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端に大きな大砲が設置されていたことから「大砲の門」(トルコ語:トプカプ)にちなんでトプカプサライと呼ばれるようになったそうです。
 宮殿は皇帝の住居であると同時に、オスマン帝国の行政の中心地として機能しました。皇帝が主催するオスマン帝国の最高意思決定機関である御前会議(ディーワーヌ・ヒュマーユーン)は、宮殿の「ドームの間」(クッベ・アルトゥ)と呼ばれる部屋で開かれました。
 後宮(ハレム)は旧宮殿に残されていましたが、スレイマン1世のときトプカプ宮殿に移されました。ハレムの人々は、スレイマンの夫人ヒュッレム・スルタンを端緒として16世紀後半頃から政治に介入しはじめたそうです。
儀式用玉座
 17世紀中頃に大宰相の執務所と書記官僚の文書行政機構が大宰相公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に移ると、宮殿はオスマン帝国の最高政務機関としての実質を失いました。
 トプカプ宮殿は皇宮として、帝国の儀礼と公式行事の中心でしたが1853年に皇帝が西洋風のドルマバフチェ宮殿に移ってからは荒れてきました。トルコ政府は1924年にトプカプ宮殿を博物館にしました。修復して一般の人々が見学できるように公開しました。
 オスマン帝国は16世紀のシュレイマン大帝の時、最盛期を迎えました。大帝の死後度重なる戦争にことごとく敗北し領土を失いました。19世紀末にはエジプト、ブルガリア、ギリシャも独立しました。
第一次世界大戦ではドイツにつき敗戦国になりました。スルタンは命と引き替えにトルコを戦勝国に譲る約束をしました。分割・植民地化の危機からこの国を救ったのはムスタファケマルつまりアタティルクでした。このため宮殿内の財宝はそっくり残っているのです。
ダイヤモンド
 「短剣のトプカプ」として知られる大きなエメラルドをあしらった美しい短剣、86カラットのスプーンメーカーのダイヤモンドは特に有名です。漁師がこのダイヤの原石を拾って市場でスプーン3本と交換したのでこの名が付いたそうです。
短剣トプカプ
 歴代トルコ王宮のコレクションの中には中国、日本からの陶磁器のコレクションたくさん陳列されています。すばらしい古伊万里の焼き物などもありました。まさにシルクロードの西の終点です。
黄金のゆりかご



地下宮殿
イェレバタン・サライ
Yerebatan Sarayi
 イスタンブールの旧市街には、地下の貯水池が何ヶ所か発見され、中でもこの貯水池はコンスタンティヌス帝からユスティニアヌス帝の時代に造られたものだといわれています。ここはビザンツからオスマン朝時代にかけて周辺地域の主要な水瓶となっていました。
 地下宮殿は縦140m、横70m、高さ8mで、コリント様式の柱で支えられています。当初この柱は336本ありましたが、東西の壁が塗りつぶした時は、90本の柱がなくなっていたそうです。
 薄暗い宮殿の一番奥にはメドゥーサの顔の彫刻が2基置かれています。石にされるのを恐れた石職人がこれを設置するときに首を横にしたり、逆さまにしたりして災いが及ばないようにしたようです。ここは映画「007」の撮影に使われたことでも有名です。



ガラタ塔
Galata Kulesi
 ガラタ塔は高さ67mです。6世紀ごろ灯台として使用するために建てられたそうです。現在の塔は1338年に当時この地を支配していたジェノバ人が監視塔として再建したものです。オスマン時代は監獄として使われ、ムラット3世のときは天文台としても利用されたようです。展望室は53mで360度見渡せます。



ボスフォラス海峡
 エーゲ海と黒海を結ぶ海峡の黒海側の部分です。現在ではボスポラス海峡といわれています。つまりヨーロッパ大陸とアジア大陸を分かつ海峡なのです。長さ30km,幅700〜3,000mです。
 ギリシア語では「牝牛の渡し」のことです。ゼウスがヘラの女神官イオを恋したために,妃ヘラは嫉妬から彼女を牝牛に変え,虻を送って彼女を苦しめました。彼女が虻に追われてヨーロッパからこの海峡を渡ったことからつけられたといわれています。
 またトルコ語でボスフォラス(Bogaz)とはのどという意味だそうです。補足長細い形状からこのように呼ばれたのかもしれません。
 ギリシャのアテネは穀物が慢性的に不足しがちでした。黒海沿岸からの穀物輸入は最重要ポイントでした。ボスフォラス海峡は政治的にも重要な意味を持っていてビザンティオン(現イスタンブール)はアテネの戦略上の拠点になっていたのでした。
 紀元前404年にペロポンネソス戦争でアテネが敗北した最大の理由の一つには、この一帯の制海権をスパルタに奪われ、アテネ市民が飢餓に陥ったためだといわれています。
ボスフォラス海峡の城塞
 ボスフォラス海峡の最狭部に急造された城塞ルーメリヒサールです。この城は15世紀トルコ軍によるコンスタンチノープル攻略の布石となりました。各地の遺跡から集められた石材は、城に使われ、ここから海峡を通過する船を砲撃したそうです。



ベリーダンス

 古代エジプトにその源を発するベリーダンスは、その後イスラム宗主国トルコの王宮に伝わりました。ベリーダンスとはへそを出して舞う踊りのことで、小さな金属のカスタネットを指に、腰を激しく振り動かす妖艶な踊りです。 
 きらびやかで露出度の高い衣装を身につけた踊り子が腰をくねらせて激しく踊ります。アラブ音楽との融合によってより刺激的に発達したといわれています。20世紀半ばの一時期は肌の露出が禁止されたりしたそうですが、観光客の増加で人気が上がり、再びアラビアンナイトの世界に戻ったようです。



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