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大阪の陣での真田信繁(幸村)

  関ヶ原の戦の後、昌幸・信繁は信幸の助命運動で死罪をまぬがれ、高野山蟄居のため上田を去り、昌幸はそこで歿した。信繁(幸村)が再び歴史の表面に登場するのは、家康の大坂城攻撃のときであり、それは同時に信繁の最期でもあった。
 慶長一九年(一六一四)、京都方広寺(ほうこうじ)の鐘銘問題をきっかけに徳川と豊臣はそれぞれ軍備を整えるが、豊臣からの援助要請に応ずる大名は一人もなく、加勢は全て牢人であった。信繁は浅野長晟(なり)の監視する九度山を巧みに抜け出し大坂へ入城するが、これは家康を大いに恐怖させたといぅ。このとき信繁は総堀の外に真田丸を築いて守りに入ったが、信繁が大坂方の中心となり得なかったことを示している。この年の冬の陣は両軍対峙したまま大合戦には至らず、講和した。しかし信繁はこの講和を全く信用せず、故郷への手紙のなかで、明日はどう変るか知らないが、自分のことを浮世に在ると思わないでほしい、と述べている。その予測通り翌元和元年四月に家康は大坂再征を命じた。二の丸・三の丸まで埋め立てられて裸同然となった大坂城では守り通せないと知った大坂方の緒将は城外に家康軍を迎え討ったが、次々に敗死した。信繁軍は二度までも家康の本陣にせまり、後に「真田日本一の兵」と言われるほどであったが、力戦もそれまでで信繁は終日の戦いに疲れ果てて休息していたところを討ちとちれ、部下も一人残らず討死したという。

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