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京都の旅と歴史
京都の旅    京都市伏見区

上醍醐寺
かみだいごじ
京都府京都市伏見区醍醐醍醐山1


上醍醐
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 深雪山(みゆきさん)醍醐寺は醍醐山全山を寺域とする京都屈指の大規模寺院です。伽藍は広く、山上の上醍醐と裾野の下醍醐に分かれ、80余りの堂塔が立っています。上醍醐と下醍醐は険しい山道で隔てられていて、女人堂から山道の参道を1時間かけて登ります。
 醍醐寺の創建は上醍醐から始まります。平安時代の貞観16年(874)、弘法大師空海の孫弟子にあたる聖宝(しょうほう)・理源(りげん)大師が笠取山の山上に准胝((じゅんてい)、如意輪(にょいりん)の観音像を祀ったのがその起源とされています。
 伝説によると、五色の雲に導かれ笠取山に登った聖宝は、老人に姿を変えた笠取山の地主神、横尾明神と出会います。老人はそこに湧く水が醍醐味であると教え、聖宝が飲んでみると確かにうまく、「醍醐の妙味」と賞したのが醍醐の名の始まりになっています。
 聖宝は精舎を建てる所を見つけていると話すと、老人は自分は土地の地主神(横尾明神)で、この地を譲って精舎の守護神になると言ったそうです。そこで泉のほとりの柏の木を刻んで作った准胝、如意輪の2つの観音を祀る小堂宇を建てたのが、醍醐寺の始まりとなったそうです。
 上醍醐の中心である准胝堂は昭和14年(1939)の山火事で焼失し、昭和43年(1968)に、再建されていました。平成20年(2008)に落雷により再度焼失し、現在は准胝堂跡が残るのみです。そのため、准胝堂で行われていた西国札所の納経は、下醍醐の観音堂で行われています。
 上醍醐には国宝の薬師堂、清滝宮拝殿、国の重要文化財の如意輪堂、開山堂が建てられています。寺務所客殿、清滝宮本殿、五大堂、鐘楼、准胝堂跡、経蔵跡、白山大権現、地蔵堂のほか、上醍醐陵や奥の院もあり、寺の創建に深く関係する醍醐水も湧き出ています。


醍醐水
 清滝宮拝殿の近くに醍醐水があります。横尾明神の化身である老人が聖宝・理源大師に醍醐味であると教えた泉の水で、聖宝が「醍醐の妙味」と賞賛した醍醐寺発祥のところです。今でもこの霊水を飲むことができます。
醍醐水

清瀧宮拝殿(国宝)
 上醍醐の諸伽藍の入口付近に清瀧宮(せいりゅうぐう)拝殿が建てられています。清滝宮とは、空海が唐の青龍寺より勧請した密教の守護神を祀る神社で、醍醐寺の鎮守社です。寛治3年(1089)に創建された建物は焼失し、永享6年(1434)から5年かけて再建されたものです。昭和29年(1954)に国宝に指定されています。
清滝宮拝殿
 清瀧宮拝殿は間口7間、奥行3間、単層、檜皮(ひわだ)葺き、入母屋造り、軒唐破風付きで、3間の向拝があります。斜面にあるため南側は束柱を建てて空中にせり出した懸造り(かけづくり)となっています。神社の拝殿にしては珍しく、半蔀(はじとみ)や引違格子戸を備えた住宅風の作りで、寝殿造りの手法を生かしています。
清瀧宮拝殿

清瀧宮本殿
 清瀧宮本殿は三間社流造りで、拝殿の奥の小高い山の上に建てられています。本殿は醍醐寺の総鎮守、清瀧(せいりゅう)権現を祀る宮で、昭和32年(1957)に再建された建物です。聖宝・理源大師が上醍醐を開いた際に、清瀧権現の霊託が下り、醍醐山本宮峰に降臨したといわれています。清瀧権現は、空海が中国の青龍寺から伝えたものですが、青龍に、水にちなむ「さんずい」が付き「清瀧」となったようです。
清瀧宮本殿

醍醐寺准胝堂跡
 醍醐寺にある准胝堂は本堂にあたり貞観18年(876)の創建と伝えられています。何度か火災により堂宇は焼失しています。昭和14年(1939)の山火事で焼失し、昭和43年(1968)に、再建されていました。平成20年(2008)に落雷により再度焼失し、現在は准胝堂跡が残るのみです。
醍醐寺准胝堂跡

醍醐寺薬師堂(国宝)
 薬師堂は清滝宮から山を少し登った所に建てられています。上醍醐伽藍の中央にあり、保安2年(1121)に再建された建物です。延喜7年(907)に醍醐天皇の御願堂として聖宝・理源大師により創建されました。上醍醐寺では最古の建物で、数少ない平安時代の遺構として、昭和34年(1959)に国宝に指定されました。
醍醐寺薬師堂
 薬師堂は間口5間、奥行4間、単層、入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺きの建物です。正面の両脇間には連子窓が入れられ、正面の中央3間、左右側面の手前1間、背後の中央間には板扉がはめられています。全体に水平感を強調した落ち着いた建物で平安後期の気風をよく伝えています。
醍醐寺薬師堂
  本尊の薬師如来坐像は脇侍の日光、月光両菩薩とともに国宝に指定されています。理源大師が延喜7年(907)に弟子の会理僧都に造らせたといわれ、歴代聖帝が病気平癒を祈る度に金箔を貼り加えられたので、「箔薬師」の名がつきました。現在は霊宝館平成館に遷座され、薬師堂には新しい本尊として薬師三尊が祀られています。
醍醐寺薬師堂

醍醐寺五大堂
 醍醐寺の五大堂は薬師堂の東にあります。醍醐天皇の御願により延喜7年(907)に薬師堂のあとに建立されたそうです。その後、火災に遭い、その度に再建されてきました。現存の堂は昭和15年(1940)に再建されたものです。五大力さんの信仰の中心で、鎮護国家を託され山上密教寺院の雰囲気を今に伝えています。
醍醐寺五大堂
 五大堂の前に安置されているのは「理源大師像」です。堂内には木造五大明王像が鎮座しています。不動明王、降三世夜叉(ごうざんぜやしゃ)明王、軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王が五大明王で、国の重要文化財に指定されています。
醍醐寺五大堂

醍醐寺如意輪堂(国重文)
 如意輪堂(にょいりんどう)は聖宝・理源大師が上醍醐を開いた際、准胝堂とともに最初に建てられた建物で、醍醐山頂にあります。醍醐寺縁起では、貞観18年(876)に如意輪堂は創建されたようです。現在の建物は慶長11年(1613)に豊臣秀頼により再建されたものです。昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されています。
醍醐寺如意輪堂
 間口5間、奥行3間、単層、入母屋造り、妻入り、こけら葺きの懸造りで、勾欄付廻縁が廻らされています。堂内には本尊如意輪観音とともに脇の間に毘沙門天、吉祥天が祀られているそうです。如意輪堂の堂下の岩には如意輪観音菩薩が飛来して立ったという伝承が残されています。
醍醐寺如意輪堂

醍醐寺開山堂(国重文)
 醍醐寺の開山堂は上醍醐最大の建物で、醍醐山頂、如意輪堂の隣にあります。醍醐寺を開山した聖宝・理源大師を奉安したお堂です。最初は御影堂(みえどう)といい、延喜11年(911)に理源大師の弟子、醍醐寺第一世・観賢によって建立されました。幾度の火災で焼失し、現在の堂宇は、慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建された建物です。
醍醐寺開山堂
 開山堂は間口8間、奥行5間、単層、入母屋造り、妻入、軒唐破風付、3間の向拝があります。側面前端の間の扉が縁(廊下)を途中で切断して、亀腹(かめばら)まで達しています。内内陣には、中央に醍醐寺開山聖宝理源大師像、左に真言宗宗祖弘法大師像、右に醍醐寺第一世・観賢像が奉安されています。開山堂は昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されています。
醍醐寺開山堂

白山大権現
 白山大権現は如意輪堂と開山堂の間に建てられています。上醍醐でもっとも高い場所に3つの社殿が並んでいます。白山権現は山岳信仰の神仏習合の神です。祭神は白山比盗_または菊理媛尊(くくりひめのみこと)。 菊理媛尊が喧嘩するイザナギとイザナミを仲裁したことから、人と人の縁をくくるとして縁結びの神様として知られています。
白山大権現

上醍醐陵
 上醍醐陵(かみだいごのみささぎ)は上醍醐山頂の開山堂の近くにあります。白河天皇の皇后であった藤原賢子、その娘で堀川天皇の皇后のてい(女へんの右に是)子内親王、加茂の斎院になった令子内親王が葬られています。また鳥羽天皇の皇女禧子内親王も一緒に葬られています。
上醍醐陵



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